2013年9月11日水曜日

戦争体験を語る:泉谷ミサノさん(2)

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「戦争は絶対にしたらいかんです」


泉谷ミサノさん(鳳東町)

疎開先での暮らし

 半年ほどしてそこから3里山奥に入った辺ぴな集落、父の生まれた村で蔵を借りることができました。昼でも中は薄暗く、電気もまだ集落にはきていませんでした。煮炊きや洗濯の水は川の水でした。風呂もなく、隣近所に順番にもらいに行きました。山深い田舎ですから山菜もあり、道ばたの草もあり、食べるものは何とかありました。

 ここで田を借りて農業を始めました。田といっても股の辺りまでずぶずぶと入り、ヒルがいつの間にか体のあちらこちらに入り込んで血を吸うような、そんな田んぼしか貸してもらえませんでした。家計のことはよく分かりませんが、町内会からよく買わされた国債は紙切れ同然となり、貯金だけでやっていたと思います。自分も働いて貯めた貯金は持っており、親に支援を受けたことはありませんでした。

父の死

 農家の「木っ葉」(注:長男以外の男の子のこと)である父は、生家からは何の援助も受けることのできないまま、働き通し、普通の生活もできず、電気もきていないその家で、少し患っただけで病死しました。58歳でした。3里ほど離れた駅前に医院はあったが、呼ぶ馬車代もなく、医者に診てもらわないまま死んでしまいました。この頃のことは二度としたくない話です。

終戦

 終戦をむかえたのは、お寺に寝泊まりしていたときでした。8月14日に仕事の面接に行きましたが、不採用を告げられ,翌15日に帰ると、寺に20人ほど集まっていました。そこで玉音放送を聞きました。よく聞こえましたが、蝉の声が異常にやかましかったことも覚えています。

 そのときの気持ちは、「やれやれ、負けたか…」という、あきらめというか、うれしくも悲しくもない気持ちだったように思います。まわりの農家の人たちは淡々として、そんなことより肥料の代わりにイワシを田んぼにまく段取りの方を気にしていたように見えました。

戦後

 父が亡くなり農業も続けられなくなり、母は二番目の妹の養女先である母の弟を頼って大阪北浜へ出てきました。私や妹たちも順々に頼って、そこで暮らすようになりました。家は狭く大変だったですが、お風呂はありました。昭和24年(1949年)は、まだまだ戦後の食糧難の頃でしたが、母の弟は食堂をやっており、おかげさまで、食べ物にはそこそこ恵まれました。

戦争とは惨めなもん

 いまの私は幸せ者です。4人姉妹の3人が80代に入り、年はとりましたが、いまでも仲がよく元気で、毎週のように電話をしたり、旅行をしたりしています。また1人旅も楽しみで、大好きなお城見物に1人でゆっくり行ったりしています。

 戦争の時代を生き延びてきた私の人生を振り返ってみても、戦争は絶対にしたらいかんです。いつだったか大阪城にある「ピースおおさか」の見学に行って、写真を見たり「すいとん」をよばれたことがありました。私は空襲など怖いめをしたことはありませんが、それでも戦争とは惨めなもんです。戦争がなければもっともっと楽しい人生だったと思うけど。戦争とはおかしなものや。戦争が強い人間にしてくれたし、平和のありがたさを教えてくれたんやとも思います。(完)

(インタビュー、小倉・荒川、2012年5月22日)

『憲法九条だより』第21号(2013年9月3日)から

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