2007年3月1日木曜日

戦争体験

二度と同じことを繰り返さないで欲しい
鳳南町・安野輝子さん

 私が6歳のときでした。1945年7月16日午後1時頃。川内市(現・薩摩仙台市)の自宅で弟やいとことあそんでいる時の空襲でした。警報が鳴り、部屋でじっとしていると,爆弾が自宅近くに落ちました。気がつくと周りは血の海。血は私のものでした。なぜか痛みは感じませんでしたが、怖くてみんなで泣いていました。爆弾の破片が左足の膝から先を削りとりました。病院に運ばれ死線をさまようこと数日間。ガラスのビンの中で浮いていた切断された自分の足を忘れることはできません。当時、足は切れても、トカゲの尻尾のように生えてくると信じていました。

 間もなく終戦。米軍機のごう音におびえなくてすむ喜びはありました。でも、足は生えてきませんでした。空襲で家を失い、過疎地での困窮生活が始まりました。2歳の弟は栄養失調で亡くなりました。私も栄養不良で、足の治療も進まず、つえや義足を買うこともできず、外で遊ぶこともできず、学校では運動会にも参加できず、雨がふると学校を休み…、勉強にもついていけず、孤独な毎日でした。16歳のとき、母親の故郷である大阪にきました。手に職をつけ自立をと考えて、洋裁を学びました。その後、義足であることを隠して就職した会社は、2年後に倒産。友人と洋服の注文を受ける仕事を始めます。

 あるとき、母親に問いかけました。「なぜ戦争に反対しなかったの? 戦争さえなかったら、こんなつらいめにあうことはなかったのに…。」母は悲しそうに答えました。「気がつくと戦争は始まっていたの。どうしようもなかった。」この意味が本当に分かったのは、4年前イラクに自衛隊が派遣されたことからです。アメリカについていくと戦争に巻き込まれる不安が高まっていました。国が戦争をすれば、私のように傷つく人が出る。だから戦争を起こしてはならない、戦争放棄の憲法九条は絶対に守らなければならない、と母はいいたかったに違いありません。

 現在私は空襲被害者たちと「戦災障害者の会」をつくり、戦争で傷ついた民間人の補償を国に求め、二度と同じことを繰り返さないで欲しいと訴えています。

[『憲法九条だより』第3号(2007年3月1日)から]