2011年5月27日金曜日

「9条守れ」大阪62%:毎日紙報道


 5月4日付け毎日新聞は、憲法施行64周年の5月3日に関西各地で行なわれた催しを紹介し、大阪市役所前で市民団体が「憲法9条守る?変える?」と題して実施した街頭投票をその記事のトップに報じました(記事のインターネット版はこちら)。投票では、三つの選択肢を示したボードに通行人がシールを貼る形で行なわれ、「守る」62%の他、「変える」29%、「分からない」9%でした。この数字をあなたはどう見ますか。
『憲法九条だより』No. 14(2011年5月10日)

 後日の追記:5月3日付朝日新聞は、全国世論調査(電話)によると、憲法9条を「変えない方がよい」が59%で、「変える方がよい」は30%だった、と報じている。有効回答1842人という数字から統計誤差を計算して考慮すれば、59%は(59±2)%となる。毎日新聞の街頭投票にも同程度あるいはそれ以上の誤差があるはずだから、誤差の範囲で両調査の結果は一致しているといえる。ただし、朝日新聞の昨年の調査での、改正反対67%、賛成24%にくらべると、今年はやや差が縮んだ、という報道は、その通りと見なければならない。
(2011年6月19日、多幡記)

2011年5月24日火曜日

戦争体験を語る:「地獄の時代でした」

鳳東町・佐竹文雄さん


 この年まで生きてきて、いま幸せです。家内と二人で毎日を感謝しながら、先祖供養もしっかりやりながら、喜んで過ごさせてもらっています。それにくらべ、戦争中は地獄の時代でした。エーこともない、楽しいこともない、悪いことばっかりで思い出しとうない。以前から戦争体験談を頼まれていましたが、断り続けていました。家内や子どもたちにも話したことはない。戦争時代の写真などもいつ頃だったか全部捨てました。わが家には結婚式以後の写真しかありません。

 わたしは大正11年6月10日、香川県多肥村(現在の高松市多肥)の農家に生まれました。昭和12年、尋常高等小学校(今の中学校)を卒業して、大阪船場の綿布問屋の住み込み丁稚奉公に出ました。3年後の18歳の夏、馬場町の砲兵工廠に徴用され山砲の薬きょう作りをさせられました。20歳の夏、本籍地の多肥村で徴兵検査を受け、甲種合格となり、翌3月1日、福山の陸軍41連隊に入隊し、きびしい訓練がはじまりました。毎日毎日銃をかついで歩いたり走ったりの行進や、ほふく前進、山に入って敵味方に分かれて競争したり、そして、何かあるごとに容赦のないビンタの嵐。

 半年ほどして朝鮮の平壌へ配属となり、南方戦線帰りの部隊と合流しました。まず歩哨をやらされ、マイナス20度にもなる平壌の冬は、外套2枚着ていても冷えて、ジッとしておれない程でした。そのあと、酒タバコなど売る業者を束ねる酒保勤務のとき、腸チフスにかかりました。当時ほとんどの人が死ぬ病気で、自分も覚悟をしていました。痩せて痩せて骨と皮状態になったが、3カ月ほどして幸運にも治りました。元の中隊にもどってしばらくして、軍医から「1回死んだんだからここに行きなさい」と、宮崎県川南町にある陸軍118部隊に配属されました。22歳の春でした。平壌から船で博多へ。日本の匂いがして嬉しいことでした。

 宮崎駅には朝着きました。天気がよくて、飛行機からキラキラした美しいものが降りてくるのを目にしました。落下傘部隊の訓練でした。希望を聞かれたとき、このときの印象で、ばかなもので「熱望する」と書いてしまいました。落下傘部隊は敵のど真ん中に降りて戦うだけに、ほとんど死ぬと言われていたのに、自分は怖いとは思いませんでした。入隊したときから、生きて帰ることは頭になかったからだと思います。そこまで思い込まされていたことは、いま考えると恐ろしく思います。

 配属が決まってからはエライ目に遭いました。演習といってもほとんど走るばっかり。他には、障害物に素早くかくれる、身体にロープを結び、高い松の木に滑車で引き上げられ、放して落とされる、2階の窓から下に敷いてある2枚のマットめがけ両手両足をバンザイの形にピンと伸ばして飛び降りる、などやらされ、中には手足の骨どころか首の骨を折った人もいました。自分は2階からの飛び降りが「見本や!」と、上官に何度も褒めてもらいました。

 そのうちに飛行機に乗せられ、実際に上空から飛び降りる演習をやりました。はじめて飛び降りるときの恐ろしさは、何というか言いようのないものでした。1・2・3で一人、1・2・3でまた一人と、切れ目のない掛け声とともに、上官にケツ叩かれ飛行機から飛び出します。ためらって少しでも遅れると、ケリ落とされた人もいました。数秒後、落下傘が開き、大きな衝撃がくるとホットします。上を見上げるとニコッとしている後続者の顔が見えました。ただ降りるだけでなく、実戦さながら弾薬を腹に巻き、銃を入れた袋を脚に括りつけ、両手で落下傘を操作します。5回この降下演習をしましたが、落下傘が開かず死亡した人も一人いました。

 この陸軍落下傘部隊は優秀な部隊で、有名なパレンバンの戦いに参加した兵隊もいました。この部隊は5月末に出動したのが最後でした。飛行機がなくなったと聞きました。朝動員が来て編成され、昼には出発しました。どこに向かったのか、一切発表はありませんでした。硫黄島全滅の後であり、沖縄らしいとの噂はありました。新聞にも「日向部隊(落下傘部隊のこと)出撃」の記事が最後で、以後のことは一切載りませんでした。飛行機のないわが落下傘部隊は、山砲の班に編成され、馬の代わりに山砲車を曳く演習をしたり、次は家を壊して半地下の大きな壕を掘ったり。この頃になると、大本営発表もウソついてるし、空襲されても反撃に飛び立つ飛行機もないし、この戦争は負けると感じていました。

 8月15日、練兵場で軍装し整列してラジオを聞きました。雑音で何を言ってるのか分からず、連隊長は「しっかりやれと言ってるぞ」と説明していました。友達が「日本は負けたぞ!」と教えてくれました。このとき「助かった。これで帰れる、嬉しいな!」ばかりで、負けて悔しい気持ちはなかったと思います。部隊の中には腹を切るとか山にこもって最後まで戦うと言ってた人もいましたが、実際にはそうした人は一人もいなかったと聞きました。

 いまでも世界中で争いや戦争は絶えません。戦争とはどんな理屈をつけようと殺し合いには違いない。絶対にいかんことだと思います。

(聞き手と写真・小倉)

大切な輪


鳳東町・浅井千代子
四月二十九日
祝日の浜寺公園
松林がつづくあっちこっち
笑い声がはじける子供連れ家族
半袖Tシャツの若者集団
のんびり日向ぼっこのお年寄り
こずえ越しに降りそそぐ
やわらかな陽射しよ
地震・原発被害に苦しむ
東日本の方たちに申し訳ないが
ここにはささやかな平和がある
そんな和の中を
ビラ・署名用紙を手に
私たち九条の会メンバーが
泳いでゆく
この日
廊下の隅で眠っていた棒使い人形も参加
もの珍しげに寄ってくる小学生
幼児も遠くで手を振る
出店の若い女性もしきりに・・・
9条とメルヘン
思いがけなく弾む会話
ほんに小さな輪に過ぎない
でもこの国の未来の平和につながる
沢山の輪の一つ
欠けるわけにはいかない
とても大切な輪の一つだから


浜寺公園で人形と署名活動中、子どもたちと会話する

2011年5月23日月曜日

「憲法記念日のつどい」に参加して


=話芸ってすごい力を持っているんやなあ=

 900名の参加者が桂吉弥さんの話芸に引き込まれ、腹の底から笑い転げた帰り道、やっぱり九条を守らなあかんと決意を新たにした集会でした。
  「ひろげよう九条のこころ なにわの人情が平和をつむぐ」と題して行なわれた九条の会・おおさかのつどい。東日本震災被災の皆さんへの見舞いと黙祷、基調講演「憲法九条と東アジアの平和」は関西大学教授高作正博さんのお話です。
  東日本震災で何が起きているか、何をなすべきか、何が課題か、どう行動すべきかを話され、「死者は生者に義務を果たす」亡くなった人たちがまた生まれてきたいという世の中にしたい、と述べられました。
  また、民主主義のない国に平和はないという視点から、現在の日米関係や基地を沖縄にこだわることや、不安定な東アジア情勢を背景に在日米軍強化を狙っていること、そして日米関係「深化」の次に来るものは改憲・解釈改憲・集団的自衛権の実績つくり、説明されました。
  最後に、新たな改憲論「国家緊急権」の登場について話されました。震災復興と絡めて出されているので惑わされないようにとのこと。それは (1) 憲法を含めて全ての法を停止する、(2) 行政の長が命令を出し何でも出来るようにする、という怖い内容です。
  「日常生活の質をよくすること…私たちのこの願いが現憲法には込められています。」——井上ひさし
  私たちの素朴な願いが人の手でつぶされることがないように、一人でも多くの人と手をつないでいかなければ、と考えさせられました。
 上・井崎孝子

2011年5月22日日曜日

東日本大震災と憲法九条


 今年の憲法記念日は大震災直後の大変な中で迎えました。まずは、震災の犠牲となられた方がたへ深い哀悼を表し、被災された方がたへ心からのお見舞いを申し上げます。被災された方がたの悲しみや苦しみを癒し、生活を再建することこそ復興の目的であり、そのための一番の力になるのが日本国憲法であると思います。3名の方に大震災にあたっての思いを述べていただきました。
(『憲法九条だより』編集子)

国境を越えて自然災害とこそ戦わねば
 津波で破壊された市町村の様子は、太平洋戦争中の空襲で焼け野原にされた都市を思い起こさせます。近年、世界各地で大規模自然災害が発生しています。人類は国境を越えて手を取り合い、自然災害とこそ戦わなければならないのです。その意味からも、憲法九条を変えてはならないことが明らかです。
 自衛隊が災害救助に活躍している報道が盛んになされましたが、だからといって、政府が周辺国を敵視して防衛力を増強することに、弾みをつけさせてはいけません。米軍による救助復興支援活動も行なわれていますが、それを代償に沖縄の米軍基地問題をアメリカ言いなりの方向に進めるようなこともあってはなりません。
 また、原発事故は専門家たちが指摘した安全対策を、自民党から民主党に至る政権がなおざりにして来た人災です。政府は国民の暮らしの安全を計ることを第一に考えるべきです。
上・多幡達夫

憲法を原点に復興活動を
 木々の緑、心地よい風に思わず深呼吸をします。しかし、今年は3月11日に東日本を襲った大地震で、例えようもない悲しみの中でめぐる季節となりました。テレビなどで目にする被害の大きさ・無残さに震え、政府や東京電力の対応に怒りを覚えます。家族を失い、家を失い、仕事を失い、ふるさとも消えた人びとはこれからどうするのか心配です。
 ところが、財界や政府は復興を口実に、農業の集約化や道州制の導入、消費税値上げなど、被災者に追い討ちをかけるようなことを語っています。また、自衛隊の活躍が伝えられていますが、必要なのは災害救助隊です。米軍も活躍しましたが、これを機に日米安保体制の強化を目指すのではないかと心配です。
 さらには、「緊急事態規定」のない憲法は欠陥として、改憲の動きがあります。政府が「緊急事態」に対応できないのは憲法のせいでしょうか?「火事場泥棒」的なやりかたで九条改悪に道を開く動きは許せないと思います。
上・荒川加代子

憲法25条の実行
 阪神淡路大震災から16年、防災に関心を持ち、微力ながら地域で防災活動をしてきました。近い将来に必ずくると予想されている東海・東南海・南海地震。そして、予想されていた宮城県沖地震が今回、未曾有の規模で発生しました。しかも原発事故が重なり、多くの貴重な命と財産が消滅してしまいました。まさに日本沈没を感じます。津波の痕は終戦時の破壊された日本の風景と似ていると感じました。戦争は人間が起こした一番悲しいことで、殺し合いほど悲しいことはありません。でも、地震や津波は防ぐことの出来ない自然災害です。
 今回の原発の事故は、それが必要なエネルギー源であっても、人災であり、想定外といってすむことではありません。国や電力会社や専門家は世界有数の地震国として備えをすることは当然であり、それが憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を実行させ、ひいては平和を守ることになると考えます。被災された皆さんの復興もこの点をしっかり踏まえた方向で、一日も早く実現することを願っています。災害は繰り返しやってきます。災害から命を守るには「自分の命は自分で守る」を日頃から意識することも大切です。
鳳中町・Y・A

『憲法九条だより』No. 14(2011年5月10日)

2011年5月3日火曜日

憲法記念日に


民主党は昨5月2日、参院議院運営委員会理事会で、憲法改正原案などを審査する参院憲法審査会について、運営手続きを定める規程案を提示した、との報道がきょうの新聞に掲載されました(毎日新聞など)。震災と原発危機のどさくさにまぎれて、改憲勢力が国民の望まない改憲への準備を進めようとする動きであり、よりもよって憲法記念日に、情けないニュースだと思います。

私のブログに掲載して来た憲法9条関係の記事の初期のものへのリンクをこの機会に掲載します。ご参考になれば幸いです。

  1. 「憲法9条を世界に輝かせる」(2004年11月17日)

  2. 恐るべき改憲大綱原案(2004年11月19日)

  3. 「日本国憲法第9条について論ぜよ」(2004年11月22日)

  4. 突っ走る(2004年12月11日)

  5. 2004年回顧の視点(2004年12月22日)

  6. 「憲法9条はいまこそ旬」(2005年1月12日)

多幡達夫