2011年9月21日水曜日

情報短信


◆平和を願う大阪空襲訴訟はこれまで10回の審理を経て結審しました。判決は12月7日です。有利な判決を得るため現在署名活動と裁判官への手紙行動を展開しています。ご支援お願いします。

◆原発事故と放射能汚染は収まるどころか広がる一方で、先日、高濃度セシウム培養土が鳳の公園でも使用されていることが分かり、大騒ぎとなりました。故郷を奪われた人たちもいます。人類と共存できない原発廃止を訴え、議論を広めましょう。

◆大阪府知事選挙が11月27日になるようです。橋下知事は咲洲庁舎への府庁全面移転断念や防災対策後退などをする一方で、「君が代」強制条例などの管理統制で維新の会やりたい放題の「独裁」を狙っています。このような府政をこのままにしていいのでしょうか?

◆民主・自民有力議員の改憲発言が相次いでいます。自民党政調会長の石破氏は著書で「改憲を党是…そうでなければ我が党の存在意義は無きに等しい」とまで言っています。

◆居座り続けた管総理が辞任。公約違反の道を進むなら、だれが代表でも未来はないでしょう。国民の期待に応える、国際社会に恥じない政治を望みたいものです。

 [以上、9月11日付け記事からここまで、『憲法九条だより』No. 15、2011年8月25日発行 から(一部修正して掲載)]

2011年9月20日火曜日

悲しき歌

鳳東町・浅井千代子

その曲が流れてくると
自然と身体中の細胞が
委縮するのを感じます
顔の筋肉が心なしか
歪んできます
心も微妙に震えます
両手で耳を塞ぎます
テレビだと
チャンネルを変えるか止めます
相撲の千秋楽
オリンピックの表彰式等
鳴呼! なんて悲しいこと
自分の国の
国歌を嫌悪をするなんて 

中国の朝鮮の東南アジアの
沖縄の内地の
数えきれない沢山の生命の
うめきと重なるのです
消えることのない
歴史の真実と重なるのです

監視の眼を尖らせ
処罰のほくそ笑み
心は網にからめとられ
教師ではありませんが
日本人くびですか、わたしも

六十六年前
人生から青春を欠落させた
この国の象徴としての君が代
悲しい歌


浅井さんが作り続けて、訴え続けている、九条ブローチのタペストリー。

2011年9月19日月曜日

戦争体験を語る:鳳中町 岡島傳兵衛さん



「忘れよう忘れようと生きてきました」

 私は明治44(1911)年10月、大阪なんば千日前に生まれました。近くには洋館になる前の精華小学校や幼稚園、当時評判の「洋食の自由軒」もありました。通称鴈治郎横丁を出た通りの向かいの路地にわが家はありました。

 学校を卒業し、当時演劇の興行をやっていた宗右衛門町の松竹株式会社に入社しました。やがて戦争が激しくなり演劇どころではない時代になりました。空襲や機銃掃射にも何度もあいました。将来のことを考えた末、そこを辞めて、友達の紹介で高田アルミ(後の昭和アルミ)に就職しました。終戦後も働き、定年まで勤めることができました。

 結婚をして30歳を過ぎた頃、赤紙が来ました。20歳の時、徴兵検査を受けていましたが、兵隊には行っていませんでした。なのに赤紙1枚で兵隊です。所属は呉海軍の水兵ですが、行き先は「大阪退避」として、大阪市杉本町の大阪市立大学にある兵舎でした。入隊式もありませんでした。毎日毎日、訓練と馬の世話でこき使われたことを覚えています。戦地に行くことはありませんでした。

 昭和20(1945)年3月13日、夜半から始まり未明まで続いた大阪大空襲で、自宅と何もかもが焼きつくされました。わが家はスッカラカンの裸にされてしまいました。自分の幼いころの写真や家族の写真さえ1枚も残っていません。そのとき杉本町の兵舎にいて「空襲でなんば辺りが全焼した」と聞き、翌朝だったと思いますが、上官に車で連れて行ってもらいました。家の形はなく、見渡す限り焼け野原で、灰や焼け焦げたものが一面に広がっており、自宅のあった場所さえ判りませんでした。

 偶然、自宅にあった大きな鉄製の火鉢の取手部分が灰の中から突き出ているのが目に止まり「ここが自宅跡」と分かったのでした。幸いに家族は逃げて全員無事でした。しかし、住むところがなく、寺町筋のお寺に終戦までお世話になりました。自宅の焼け跡は、何が何だかわからないうちに他人が占拠してしまい、土地まで盗られてしまいました。

 戦争中は、ほかにも食べ物は少なくまずい、着るものは少ないなど、口にしたくないような嫌なことがいろいろ多くありました。そんな苦労をしたことは考えたくもなく、できれば心に蓋をして忘れたいと思い、忘れよう忘れようとしてきました。それほどいやな時代でした。若い人にいまさら辛い時代のことをお知らせしても、ピンとこないのではと思っています。

 戦争は喧嘩だし人殺しだし、自分の意見を押し通そうと「原爆を持たないとうまくいかない」という人もいますが、こんな競争をしなけりゃ平和が保てないのでは、キリがないことです。どっちかが折れないとうまくいかないし、大変なことになります。若い人たちはもっと戦争の本当の姿を知らないといけないと思うのですが、まず怖さを知ることだと思います。戦争だけは二度としてはいけません。

 私はあと4ヵ月で100歳の誕生日を迎えます。自分でもまさかと疑う年をとってなお、これといった病気もなく、こういう毎日が送れることは、ありがたいことだと感謝しています。いまは娘やヘルパーさんに親切にしてもらっており、いつの間にか、若いときには口に出てこなかった「すまないね」「ありがとう」がスッと出てきます。うれしいことですな。

 戦争体験は相当昔のことだし、つらい時代だったし、忘れよう忘れようとしていたからか、細かいことは思い出せません。こんな話でもお役にたてるんでしょうか。

(インタビュー、小倉・荒川、2011年6月1日)

2011年9月14日水曜日

7月22日「I Love 九条・合唱とト―ク」


音楽家池辺晋一郎さんを迎え

 1066人の参加がありました。お二人から感想を聞きました。

 感動しました。歌を通して世界を見ておられ、イランなど世界各国の人びととの交流から次の世代に引き継ぐ平和や歌のことを、一人ひとりに語りかけるように話され、大きな人物を感じました。私の印象に残った言葉は、「平和を願い歌うだけでは平和にならない。人間として、音楽家として、世界の平和をめざし、いま自分にできることにかかわって行動していきたい」でした。(談)(鳳東町・高野)

 美しい歌声と池辺さんのお話、あっという間の2時間でした。いま日本は非常に危険な時代に来ている。いろんな火種がある中で、もし憲法九条が変わってしまったらどうなるのかと問われ、「それぞれのやり方で、それぞれの思いを訴え、人と肩を組むことが大事」という言葉がストンと胸に落ちました。もっと聞きたかった。(上・上田)

絵手紙 上・井崎孝子

九条署名状況

当会当面の目標   3000筆
   8月25日現在   2663筆
堺市全体現在   117,933筆

2011年9月12日月曜日

原水爆世界大会に参加して

 
長崎大会で歌手クミコさんと世界各国の皆さん。

『原爆の恐ろしさ知りました』

搗頭亮二(23歳)

 8月7日~9日に長崎で開催された「原水爆禁止世界大会2011」に参加しました。初めて参加してみて、平和について考えるよい機会になったと思います。日本はヒロシマ・ナガサキに続き、福島原発事故によって、三たび放射能被害を経験しました。


 放射能汚染は日本だけの問題では収まりません。人を殺す目的ではないにしろ、不安定で危険な原発は利用すべきではないと感じました。この原発事故問題が追い風となり、核兵器のない平和で公正な世界を実現することは可能だと思います。そのためには若い世代が核兵器の脅威を下の世代に伝えていくことが大切だと思いました。

 戦争がないということが平和ではなく、核兵器という大量殺人兵器がこの世界に存在する時点で、平和とはいえないのではないかと思いました。日本は九条という戦争放棄を決めた項のある平和憲法をもつ国だからこそ、核エネルギーの利用方法をもっと考えるべきだと思います。

(つきがしら・りょうじ、耳原鳳クリニック)

2011年9月11日日曜日

「平和」あふれる8月


 「8月のジャーナリズム」という言葉があるそうです。毎年8月になると平和をテーマにした原爆や戦争の番組・記事・ニュースが集中します。これを揶揄した言葉だそうですが、今年もそうでした。それであっても私たちは、原爆や戦争の悲惨さなどと向き合い、命の大切さや平和を語ることには大賛成です。8月25日発行の当会の『憲法九条だより』には6名の方に登場していただきました。順次紹介します。

民主主義があっての平和!


鳳中町・野名龍二さん

 66年前の8月15日には、四日市市の海軍燃料兵器厰へ学徒勤労動員で行っていました。天皇の放送は、雑音だけで何を言っているのかわかりませんでしたが、日本は負けたらしい、戦争は終わったらしいという話が伝わってきました。それで、明日はどうなるのかといった不安はありましたが、もう空襲がないのかと、ほっとした安堵の気分でした。

その一か月ほど前の7月、四日市市街には焼夷弾による空襲が、海軍燃料厰には爆弾による空襲があり、二回とも恐ろしくて怖くて、必死に郊外に逃げました。同じ7月、三重県志摩半島南端の、大王崎の実家に帰省したとき、母親の野良仕事の手伝いで畑にいて、突然アメリカの艦載機グラマンの機銃掃射を受け、隠れる所もなく、これが最後かと思ったものでした。

 敗戦、終戦は、恐怖と暗黒の時代の終わりでした。恐怖と暗黒は、空襲と機銃掃射だけではありません。師範学校に入学しての,寮生活は陸軍の内務と同じでした。上級生が下級生に対して威張っていました。部屋の掃除だけでなく上級生の布団の上げ下ろしも下級生にやらせ、挨拶が悪い、眼鏡のつるが太いといってはビンタでした。学校には配属将校がおりました。配属将校は、担任の先生にも傲慢でしたし、この将校による三八銃を持っての気を付け・休め・気を付け・前へ進めの繰り返しの教練も嫌でした。

 私の父は、漁師でしたが『改造』という雑誌を購読していたためか、父が漁に出て不在の時も、特高がやってきては門に立って家の中を伺い、監視していました。戦争が終わったとたんに、上級生もおとなしくなりました。軍人・配属将校もいなくなり、特高も来なくなりました。威張っていた人たちが一様におとなしくなりました。

 それから日本国憲法の平和と民主主義で60余年。しかし、大阪府では橋下・維新の会が、教師にものを言わせない、学校での民主主義を圧殺する「君が代規律条例」を府議会で採決を強行し、さらに「教育基本条例」を準備しています。戦中・戦後を生きてきた者には、戦前の様相です。いまを戦前にしてはなりません。民主主義があっての平和です。憲法九条は宝です。

(当会の呼びかけ人)

2011年9月10日土曜日

「九条の会」メールマガジン第125号


 表記の号が9月10日付けで発行されました。詳細はウェブサイトでご覧になれます。運動に活用しましょう。主な内容は次の通りです。 

■事務局からのお知らせ
 ◇九条の会第4回全国交流集会第2回運営委員会開催
 ◇「九条の会」リーフレットのデザインが新しく
 ◇「未来世代にのこすもの 私たちは何を『決意』し
  たか――九条の会講演会」のDVD、好評発売中
 ◇憲法セミナーブックレット「核のない平和な世界と
  憲法9条」
 ◇憲法セミナーブックレット「憲法九条の輝きを日本
  に世界に」
 など
■各地から:全国の草の根にはこんなに多彩な活動が!
■編集後記~野田新首相の9条観は?

 編集後記は、野田佳彦氏の著書『民主の敵~政権交代に大義あり』(新潮新書2009年7月刊)からの言葉を引用し、"首相になった野田さん、「靖国参拝」問題と同じようにこの「憲法」発言も軌道修正するでしようか" と記しています。引用されている文の中には、「…戦後の日本国憲法のことをよく『新憲法』といいます。しかし、世界中の憲法のなかで、すでに15番目くらいに古い憲法になっているそうです。とても新憲法といえる代物ではありません。9条はもちろんですが…」と、現憲法をこき下ろしたところがあり、もしもこういう考えを持ち続けているならば、首相不適格といわなければなりません。

多幡記