2012年4月6日金曜日

「君が代」1:そのルーツ


 先月の福泉・鳳地域「憲法9条の会」世話人会議で、堺市堺区宿院町東4丁にある顕本寺(けんぽんじ)に「君が代」 のルーツを示すと見られる屏風があり、そこに記されている歌は、いずれも遊郭で歌われていたものであるとの話が紹介されました。そのことについて、インターネット上のどこかにもっと詳しく書いてないだろうかと調べたところ、次のウェブページが見つかりました。

 (1) 「君が代」のルーツが堺の寺に!? 顕本寺の僧創作の隆達節、日本共産党大阪府委員会ウェブサイト(2007年05月25日)
 (2) "隆達節" の『君が代』~江戸時代の「ラブソング」だった、ブログ『耳を洗う』(2008年6月24日)

 (1) は,記事の著者が元衆議院議員・経済学者の工藤晃氏の取材に同行したことの紹介ですが、(2) は同氏が2008年3月にその取材結果を含めて書き著した本『エコノミスト、歴史を読み解く:君が代、軍人勅諭から狂言、ミッキーマウスまで』(新日本出版社)を引用していて、より詳しい説明となっています。以下に、(2) の要点を紹介します。

 工藤氏は、新村出編『広辞苑(第4版)』(岩波書店)に、「君が代」の歌詞が「江戸時代の隆達節(りゅうたつぶし)の巻頭第一にあるものと同じ」とあるのを見て調べ始めたそうです[紹介者注:私の持っている『広辞苑(第3版)』(1983)にも同じ記述があります]。隆達節とは「江戸初期の流行歌。泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧隆達(1527~1611)が創めた小唄。1600年ころに流行、近世小唄の源流をなした。隆達小歌」(『広辞苑』)のことです。

 堺の顕本寺に隆達の墓があり、現住職夫妻は「歌謡の元祖」隆達を顕彰するため心血を注ぐうち、戦前顕本寺にあった隆達の屏風がボストン美術館にあると知り、その返還を求めました。しかし、返還はして貰えなくて、その屏風の「写し」が寺に存在するそうです。

 屏風は六曲一双で、自由奔放な遊里の風景が四面分に描かれ、両側に隆達の筆による書があります。1602(慶長7)年、隆達75歳。最初の[一面]第一首が「君が代」の歌詞と同じ、「君が代は千代に八千代にさざれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」です。他には、「おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち」、「雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも」などの「恋歌(ラブソング)」が並んでおり、「君が代」の「君」は明らかに親しい人、愛する人を指しています。

 工藤氏は調査結果を踏まえ、次のように結論付けています。
 一、「君が代」は国歌にふさわしくないと考える。付け加えて言えば、酒の席などで歌っていた歌を、子どもたちに厳粛な顔をして歌わせるのはいかがなものか。

 二、 「君が代」問題は、日本の文化のあり方にかかわっている。日本の古典芸能を大事にする立場から、「君が代」の問題を再考しなければならない。いつの日かまた、隆達が隆達節の第一に「君が代」をおいた平和を愛する心を考え、隆達のこの心が復元される日が来ることを願うものである。

 『「君が代」2』としては、その替え歌の話を紹介したいと思っています。(多幡記)

 追記:この記事をご覧の一人の方から、「わがきみは千代にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」(古今和歌集、巻七、三四三、読人しらず)の存在を指摘されました。この歌については、『広辞苑』の「君が代」の説明中にも、「さかのぼれば」として記してあります。上記の記事中「ルーツ」の言葉で表しているのは、全く同じ歌詞になった時点のものとご理解下さい。