2013年1月22日火曜日

戦争体験を語る:辻尾俊貞さん

「ただただ、こわかった空襲!」
鳳中町・辻尾俊貞さん
 この記事は、2010年3月13日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトはいずれ消去する予定です。)
I

 私が6歳の時の経験です。ただただ「こわかった!」という想いは、幼い時ながら今でもありありと覚えております。とはいってもまだ幼稚園に入る前のことです。その時考えていたことや具体的なことになると、記憶がとびとびであったり、あやふやであったり、見たのか聞いたのか後で知ったのかなど、不明確なところが沢山あります。不明確なところは極力除いてお話しさせてもらいますが、そんなんでお役に立てるかどうか心配ですが聞いてみてください。

II

私の家は鳳駅西口を出たところにあり、7人家族でした。父は軍隊に入り森の宮で食料調達係りをしていたようで、家にはおりませんでした。その日、昭和20(1945)年7月9日はいろいろありました。空襲警報が鳴り、爆撃機の機銃掃射があり、電車の客が走って逃げてきて、私の家の縁の下に隠れることなど何回かありました。夕方は西南方向の空が真っ赤っかとなり、和歌山が空襲と聞きました。

その夜中です。母の大きな声に起こされました。空襲警報が鳴り響いていました。1回目攻撃の始まりでした。外に出ると空襲は始まっており、焼夷弾の落ちるのが花火みたいで、「きれいだなー」と見とれてしまったことを覚えています。すぐに屋敷の中にある防空壕に逃げ込みました。10人は入れる大きさで、隣の2家族も入っていました。入ってすぐ「駅の方が燃えだしたよ」と聞きました。

防空壕に逃げ込んだのは、母と1歳、4歳の妹と自分の4人で、叔父さん夫婦たちは「家が燃えたら火を消さないといかんから…」と入りませんでした。1回目の空襲が終わったとき、「ここにいては危ない!」ということで、母は1歳の妹を背負い、両手に4歳の妹と自分の手を引っ張り、さらにトランクを1個持って、浜寺公園めざして逃げました。

このトランクで笑えない話があるのですが、いざという時持って逃げるように日頃から通帳など貴重品を入れて準備していたようです。この日、前回出していたことを忘れて慌ててそのまま持ちだし、浜寺公園について開けたら靴下一足だけ入っており、母は悔しがっていました。

話を戻して、わが家を出て家々がごうごう燃えているそばをぬって走りました。今の星野医院のところまで来たとき、(そこは当時芋畑でした)頭の上から焼夷弾の雨が降ってきました。それも上からではなく、後ろから斜めに追いかけてくるように降ってくるのです。後ろを見ながら前に進むのです。それでも耳元をかすめるようにビュンビュンと降ってきました。一人に当たったところを見ました。逃げるのにけんめいで、人をかまってる余裕もありません。途中、野田共同墓地まで来ると、家もなくそこで空襲がやむまで待ち、そのあとまた歩きだし、やっと着いた浜寺公園で夜を明かしました。

朝になって歩く帰り道、「鳳駅前は焼けて、全滅です」と聞かされ、途方にくれていましたが、墓の前の木寺さんの家が残っており、そしてわが家も焼け残っていると聞き、嬉しくなりました。本当に残っていました。鳳中町で40軒たらずが焼け残ったと聞いています。

III

これからは家に帰ってから見たり聞いたりしたことです。わが家には爆弾2発と焼夷弾12発が落ちました。爆弾1発は井戸の中、もう1発は裏の道に落ちて爆発し、隣が丸焼けになりました。焼夷弾は、家の中には5発で、廊下に2発、畳に1発、天井裏に1発、風呂に1発、あとは庭でした。家の中の4発はいずれも屋根や天井も突き破り、仏壇の前や床の間や部屋に落ちて燃え上がりました。焼夷弾というのは油が燃えるので周りがベタベタです。廊下はどろっと油が流れて燃えていたそうで、燃え跡が広がっています。そのとき叔父さん夫婦は、「庭の池の水をバケツで汲んで消したんだよ!」と自慢そうに話していました。どうやら焼け残った家は、火が付かなかったのでなく、消火に成功したところが多かったようです。

当時の鳳には水道はなく井戸水で生活をしていました。しかし火事などのとっさのとき井戸水を汲んでいたのでは間に合わず、役に立ちません。当時の「防空訓練」では、風呂の水を抜かずにおいて、いざと言うとき消火に使うことが奨励されており、初期消火にそれも役に立ったようです。後になって、わが家の池の水が家を守ってくれたようなものだと聞かされ、代は変っていますが、今でも大切にしています。空襲の残骸としてわが家に、焼夷弾の不発弾と焼夷弾の傘とカラの焼夷弾が残っていましたが、間もなく軍が取りに来て渡したそうです。その後出てきた爆弾は今でも記念に残しています。写真を見てください。

写真1 庭の池。この池の水のお陰で、焼夷弾で火のついた
家を守ることができたと、今でも大切にしています。

写真2 仏壇のあった部屋。ここの天井を破って焼夷弾が落ち、
燃え始めましたが、叔父さんたちがバケツで消しました。

写真3 傷痕のある床。ここにも焼夷弾が落ち、板に傷痕が残っています。

写真4 燃えた襖。この部屋に落ちた焼夷弾が燃え、この襖の
一部を焦がしました。その部分に紙を当てています。
父親の描いた襖で、大切にしている作品です。

写真5 写真6 焼夷弾の油が燃えながら流れ、その痕が今でも黒く
残っています。木が焼けているので拭いても取れません。

写真7 庭で見つかった砲弾。戦後見つかりましたが、いつ、どうして庭にあった
のか不明。そのまま記念に保有しています。サイズは、高さ26×底8.5センチ。
弾薬の穴2.5センチ。重さは6.8キロありました。

後日同居の叔父から聞いた話です。この日の空襲は、野代から始まり、鳳駅から、でんでん坂に沿って、軍需工場だった旭精工までのコースでした。でんでん坂にある野田だんじり小屋も燃えましたが、地元の人たちと近くにいた兵隊さんたちが地車を引き出して助かったそうです。地車はその後取り替えた屋根以外が今でも黒くすすけているのは、この空襲とその後いっとき野ざらしとなっていた時の痕だそうです。

7月10日だったと思いますが、朝、家の前の鳳駅ホームを駅員さんが走り回っており、電車の中からどこで燃えたのか焼死体を一体ずつ引きずり出して、大きな缶の中に放り込んでいたのを見かけました。

これも同じ日の朝だったと思うのですが、和歌山から石油を積んできた貨物車が、当時複線だった羽衣線鳳駅から少し羽衣よりに停車していて、火が出ていました。相当長期間燃えていたのを見ました。

母の里が和歌山県橋本市で、そこに何度か疎開したことがあります。そこでのことですが、橋本駅の近くの池で4、5人で泳いでいるとき、突然飛行機が現れ、こちらに機関銃をバリバリと撃ちながら向かってきました。近くにいたどこかのおじさんが池に飛び込み、ぼくの足を引っ張って沈めました。近くを玉がぴゅんぴゅんと水の中を飛んでいきました。幼いですから、機関銃で死ぬということが分っておらず、池に沈められたことの方をこわく感じたことを覚えています。

この時、橋本駅も攻撃を受けました。国鉄と南海線の渡り陸橋側壁にその弾の傷跡があるのを見に行ったことがあります。何年か前にもまだ残ってましたが、現在もあるかどうかは分かりません。

当時、米は配給で、かってに売り買いすることは禁止され、見つかると警察に取り上げられ、罰せられました。当時の警察はとても威張っており、取り締まりも厳しいものでした。それでも足りないので、ヤミ米といって田舎に買出しに行きました。見つからないように風呂敷に入れ、腰にくくり、その上にねんねこで赤ちゃんをおんぶして、見えないようしていました。ある日、母と買出しに行き、南海高野線で和歌山から帰る途中の紀見峠トンネルをぬけたところで、機銃掃射にあい、列車がトンネルへバックしたこともありました。

IV

空襲のあと、近所で家をなくした4世帯がわが家でいっしょに生活するようになりました。家ができるまでの間ということで、人数はわが家の7人を含め22人と覚えています。一家族一部屋でぎっしりいっぱい、食料はすべて出し合い分け合って仲良く助け合い、炊事もひとつの鍋で一所にして、わいわい言いながら家族みたいにしていましたが、いつもお腹はすかしていました。芋のつる、大根の葉っぱなど、食べられる草で団子を作ったりして、なんでも食べた記憶があります。それでも、そんなに苦労したという気持ちはありませんでしたが、親たちは大変だったろうと思います。同居は長い家族で1年半ぐらいだったと思います。

同じような助け合いは他にもあり、貸家2軒のうち1軒が全焼しました。残った1軒に3家族が同居し、それが2年ほどは続いていたように思います。

幼稚園に入る年になっても幼稚園がなく、いきなり小学校入学でした。鳳駅東口前のコクサイパチンコのある場所にあったのですが、空襲で燃えてしまったのです。その後しばらくして、鳳小学校講堂(現在の体育館)の中に仕切りをして、幼稚園としていた頃もありました。また現在の鳳南地域会館の場所に移ったこともありました。その後現在の場所で開園されました。

鳳小学校は空襲にはあいませんでしたが、なぜか教室が足らず、1年生が午前、2年生が午後というような、変則な授業が1年間ほど続いた記憶もあります。また、理由は分かりませんが小学校1年生のときに、教科書が手に入らず、近所の先輩の教科書を借りてきて母がざら紙に書き写し、それを教科書にして勉強したこともありました。なぜかその教科書をその後も大切にしていて、探せばまだ家のどこかに残っていると思います。

V

恩師である大学の元教授は廣島の被爆者でした。その時、暑いのでトラックに下にもぐり寝ていて丁度陰になり助かったそうです。もちろん被爆者手帳はもっていました。何度も原爆資料館へご一緒して、よくお話を聞きました。自分でも足を運んで手をあわせたこともあります。

幼い頃の、ただただこわかった体験と、恩師のような出会いを重ね平和の大切さと人と人が殺しあうことはあってはならんことの思いは強くなってきております。憲法九条をなくして戦争への道を進むなんてもっての外で、大切に守ってほしいと思っています。

(辻尾俊貞さんは、現在、鳳校区自治連合会会長の他、地域役員を歴任中)
[インタビュー・2009年12月23日、写真と文・小倉
「憲法九条便り」NO. 11(2010年4月1日)に短縮した形で掲載]

0 件のコメント:

コメントを投稿