2014年1月5日日曜日

「生き残ったのも地獄でした…戦争の惨禍を伝えていくのは私の責務だと思ってきました」:大阪空襲訴訟原告団・安野輝子さん


 大阪空襲訴訟原告団の安野輝子さん(堺市西区在住)から、新年の挨拶とともに、平和を願う思いをつづった文がメールで本会へ寄せられました。以下に紹介します。
 私は足を奪われました。B29の投下した爆弾の破片が後頭部に当たった人は、その夜も明けきらぬうちに亡くなりました。地鳴りのようなうめき声が、出血多量で死線をさまよい意識がうすれていく私の脳裏に、耳に焼きついて今も離れません。その女性は、まだ二十歳半ばの銀行員でした。生かされたのか生き残ったのか、私には朝が来たのです。生き残ったのも地獄でした。1945年7月16日~17日のことです。

 戦争の惨禍を伝えていくのは私の責務だと思ってきました。再び戦争の惨禍にまみれることがあってはならない、孫たちには平和な世を手渡したい、と、そればかり思ってきましたが、昨年12月、特定秘密保護法が成立しました。戦争は秘密からはじまるといわれますが、国家権力の横暴に成す術もありません。

 集団的自衛権の行使の容認、先の大戦の犠牲の基にできた平和憲法の改正など、この国は、どこへ向かっているのでしょうか。1万発の弾薬とは、何人の命を殺めるのでしょうか。

 昨年も、東日本大震災の復興は成らず、原発の汚染水は海にたれ流したまま…。あれもこれも胸の痛むことばかりでも、なにも成せない、むなしさがつのります。

 上記の文を添えたメールに続いて、秘密保護法の成立に落胆していた彼女が、「昨年は、戦後史のターニングポイントともいうべき年となりましたが、民衆の歴史を作るために今年があると思います」という言葉に励まされ、元気をだしていこうと思っている旨の追伸メールを貰いました。こちらのメールが、安倍首相の年頭所感中の「憲法改正に向けた意欲」に抗して、今年を憲法9条を守り生かそうの大合唱の年にしたいという筆者の思いに通じるところがあったので、3日付けの本ブログで先に紹介した次第です。

多幡記

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